今回の風邪で三晩苦しんだ。日中は症状は軽かったが、ホテルに帰って、夕方から翌朝までベッドで熱にうなされるのは余り快適な生活ではなかった。
最初の晩、ズキーン→「イテテ、ごめんなさい」。ズキーン→「もうしません、カンベンして」などと自然に“反省”的な態度になってしまった。
あまり深く考えず、この苦痛は風邪を引くような不摂生を行った自分への罰、みたいにフツーに感じた。これがスタンダードな病人の発想という気もする。
二日目の晩、この頭痛はもしかして、単なる懲罰ではないような気がしてきた。
だいたい、昨夜ひと晩中反省させられたのに、それでも許してもらえない、というのはちょっと厳しすぎるのではないか?
そもそも、“オシオキ”目的のために誰がわざわざ痛みセンサーを頭脳各所に配置するのだ?
などと疑問に思えてきて、“懲罰”案を否定したくなってきた。
では、頭痛の目的は何なのか?
痛み、というのは、そもそも身体に好ましくない事象が起きていることを示唆するべきもののハズである。罰、というのは何かオカシイ。
例えば免疫系が、ウィルスが嫌いな高温攻撃をするために発熱する。しかし一定範囲を超える温度は臓器にも一時的なダメージを与えるのではないか。
例えば大脳皮質B区画2課とか、D区画4課など特定複数の部署(?)が熱に弱かったりすると、発熱の際にこれらの部署では「ヒー暑い。ウー暑い。」と悲鳴が上がる。
ズキーン・ズキーンという痛みはそういう苦しむ人々の叫びだった、という可能性はないだろうか。
この考えの方が合理的、とまでは言わないが、少なくとも在りそうな話ではないか。
しかしだ、昨日は、ズキーン→「イテテ、ごめんなさい」みたいになっていたのが、この案では、(B2課)『うぁー暑いよー』→ズキーン!。(D4課)『助けて苦しいヨー』→ズキーン!。と、苦痛の原因を作った俺ではなく、他人が苦しんでいることになる。
まるで自分が脱藩して家族が罰せられている坂本竜馬のような気分である。
「やるなら俺をヤレ!」などとインチキヒーローみたいなセリフを叫びたくなる。が、問題は誰に叫んだらいいのか分からない。
この“とばっちり”案は、機構的には在りそうな気もするが、精神衛生上よろしくないナ、うーん、うーんと唸りながら朝を迎えた。
三日目、また頭痛が始まった。正直ウンザリである。
“おしおき”にしてはしつこすぎるし、“とばっちり”案だとどう頑張ればよいか分からない。
フト、熱のある頭の中で「バカだなあ、ごちゃごちゃ言ってないで早く治さないとずっと痛いよ」という言葉が聞こえた(気がした)。
そうか、この頭痛は「大人しくして早く治しなさい、そうしたら痛みを止めてあげるから」という“警告”だったのか!
などとヒラメいたのだが、1日目も2日目もそれなりに治療に専念していた気もするし、何がいけなかったのだろうか?
もうどうでもいいや、という投げやりな心と、「ちゃんと治さなきゃ」という心の葛藤を経て朝を迎えた。
四日目、いつもの時間に頭痛は来なかった。ああ、やっと治ってくれたらしい。